昭和44年2月川越線撮影日記

 前の年の11月にも訪れましたが、この年2月にまた9600の活躍する川越線を訪問しました。 昭和44年2日22日 (まず大宮駅で入替作業中の96を撮りました。始めに買ったばかりの105mmレンズで撮りました。) (写真06706 川越線 大宮駅 29683) (次に55mm標準レンズに替えて撮影しました。) (写真06707 川越線 大宮駅 29683) (写真06708 川越線 大宮駅 29683) (この日は気温が低く、煙が白く吹き上がっていました。) (写真06709 川越線 大宮駅 29683) (貨物に換わり、客車を引っ張ってきました。) (写真06710 川越線 大宮駅 29683 DEE SIE) (この29683は次の年に北海道帯広に渡ったとの事です。) (写真06711 川越線 大宮駅 29683 DEE SIE) 次回に続く

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昭和43年、「鉄道マニア」として新聞に載りました

 今は「撮り鉄」と呼ばれていますが、昭和の時代には「鉄道マニア」等と呼ばれていました。当時高麗川機関区に撮影に行ったときに、たまたま東京新聞の取材が来ていて、写真に収まりました。押入れを整理していたところ、この新聞が見つかったので紹介します。 昭和43年10月7日 (同日付東京新聞の「フォトトピックス」に「消えゆく汽笛惜しんで」と題し高麗川機関区を舞台にした記事が掲載されました。そこには撮影中の筆者等の写真が載っていました。) (写真 東京新聞昭和43年10月7日記事全体) (左上の大きな写真には、筆者がD51の先頭部に乗って、ナンバープレートの写真を撮っているところが写っています。「肌ざわりも楽しむ」となっていますが、この説明も含め記者の思い込みが書かれており、実際はなるべく近くで撮影したいということです。写っている人間は左からよしひこ君、下の弟、私、上の弟です。) (写真 東京新聞昭和43年10月7日D51に乗って) (この時の我々側の写真です。) (写真Image30) (写真05326 八高線 高麗川 D51911 68.9.8) (写真Image31) (左下の写真の題名が「危険防止にひと言」となっていますが、実際は「どこから来たの?」「高校生?」(当時高1)など、普通の会話で「心を鬼にして」などという事はありませんでした。手前の人間は筆者です。) (写真 東京新聞昭和43年10月7日記事左下) (右下の左の写真の題名が「サクこわし…

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