昭和43年10月7日
(同日付東京新聞の「フォトトピックス」に「消えゆく汽笛惜しんで」と題し高麗川機関区を舞台にした記事が掲載されました。そこには撮影中の筆者等の写真が載っていました。)
(写真 東京新聞昭和43年10月7日記事全体)

(左上の大きな写真には、筆者がD51の先頭部に乗って、ナンバープレートの写真を撮っているところが写っています。「肌ざわりも楽しむ」となっていますが、この説明も含め記者の思い込みが書かれており、実際はなるべく近くで撮影したいということです。写っている人間は左からよしひこ君、下の弟、私、上の弟です。)
(写真 東京新聞昭和43年10月7日D51に乗って)

(この時の我々側の写真です。)
(写真Image30)

(写真05326 八高線 高麗川 D51911 68.9.8)

(写真Image31)

(左下の写真の題名が「危険防止にひと言」となっていますが、実際は「どこから来たの?」「高校生?」(当時高1)など、普通の会話で「心を鬼にして」などという事はありませんでした。手前の人間は筆者です。)
(写真 東京新聞昭和43年10月7日記事左下)

(右下の左の写真の題名が「サクこわして侵入」となっていますが、これこそ全く関係のない写真で、「鉄道マニア」を悪者にしようという意図が見えます。)
(写真 東京新聞昭和43年10月7日記事右下部)

(記事の説明文でも「事故を気づかう老機関士」とあります。それはともかく、このころは機関区でかなり自由に写真を撮らせてもらっていたことは確かです。)
(写真06613 東京新聞昭和43年10月7日文章)

以上
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